収録作品 / 名著伴読

新渡戸稲造『自由の真髄』

自由とは何かを平明に語る

全文 4,744字・読了の目安 約9分。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。

原文(はじめの5分)

内部の矩と外部の矩

論語にある「己の欲するところに従えども矩を踰えず」の一句こそ実に自由の定義を能く述べて尽したものであると前号に説明し、然らば矩とは何なるかと反問し、これには大略内部と外部との二つに分つことが出来ようと述べた。外部の矩とは外部より来る要求、圧迫、強制等で、風俗習慣も一国の法律もその類であるが、しかしこの意味に於ける外部の矩も自分が心から心服して何の不平もなく甘んじてそれに従い、あるいはもしそういう風俗習慣なり法律なりが存しなかったなら、自分から進んで拵えたいと思うような矩であるならば、一見外部の矩の如くであるが、自己の意志の欲するところに合致する以上は、これを外部の矩とはいい難い。故に立憲国の法律の如きは国民自身が制定するのであるから、己の欲するところであって、その間に内外の区別を設けることは難い位である。

しかし自分が設けた法律でもこれを破れば制裁は外より来る。議会で決した法律の制定に特別委員となって働いた議員ですらも、この法律の規定に反すれば制裁を遁れることは出来ない。警察なりその他外部の力によりて罪せらる。この意味に於ては法律もやはり外部の矩というてよいであろう。習慣もまた同じであろう。勿論風俗習慣に反したからとて一々罰せらるる訳ではない、青年は普通に紺絣を着ている、この風俗を破って真赤な服で登校してもこれを罰することは出来ぬ。しかし世間の人は彼を笑うて狂人と見做すであろう。友人は彼と共に歩くことを嫌うであろう。恐らく先生方も彼を遠ざけるであろう。シテ見れば法律の矩は踰えないにしても、世間一般で善良なる風俗と見做している矩を破れば、その罰として世間から排斥されることになる。こういう風に外部の矩を踰ゆると自ら外部の罰を受ける結果になる。ヨシ心の中で快とせぬことでも、悉く感服したことでなくとも、大概のことなら外部の矩を遵奉し、社会や国家と調和して行って、そこで始めて世の排斥も侮辱も圧迫も受けないで、心の欲するところに従い得るから、大概のことは外部の矩に譲歩してその償としていわゆる自由を享有するのである。

然らば法律と風俗習慣とを守ってさえいれば自由であるかというに、それはやはり外部の自由だけであって、心底までその自由が徹底しているとはいわれない。言い換えれば国の法律なり風俗なりに対して全く服従出来ないことがあったなら、即ち心に服従することを欲しないことあるのにかかわらず、表向だけ唯々諾々としてこれを遵奉するは自ら欺くというもので、内部の矩を踰ゆるものではなかろうか。

内部の矩となるべき胸中のある者

人は各自に思うところがある。一寸の虫にも五分の魂があるという、僕は寧ろ一寸の虫にも五寸の魂といいたい。魂は身体より遥に大なるものである。世の中で何の名もなく位もないいわゆる田夫野人であっても、その思うところ欲するところは王侯貴族に劣らぬものが沢山ある。これは独り各自の慾望が多いとか慾に限りがないというのでない、僕の言わんとするところは各自には冒すべからざる所信または思想がある。その深い所を良心といい、陽明学者のいう良知、人の人たる本心、孟子のいう是非の心、時には自分の一部でないように思わるる何物かが胸中に存在している。

有名な英国の文士ウエルス氏が近頃一書を著して世間を騒がした。一体この人はあらゆる方面の智識を味うた人で、文士とはいいながら学術的素養が甚だ深い。しかるに無宗教論で有名であったが、先頃始めて神に関する一書を出して大に基督教を罵倒し、基督教の教ゆる神は論理上承認し難い、しかして自分の信ずる神、寧ろ自分の発見した神は各自の心に存在し、各自と生命を共にし、生るる時に備わって来て、恐らく自分が死すれば共に消ゆるものであろう。しかしそれはいわゆる自我とは異り、独立なる存在で、ただ我体内に宿っている。しかして我を警め、我を守り、我を誤らんとするものある時は必らずこれを警戒する、もし彼に反けば彼大に我を責める、従って苦めるものなりと説いている。昔陽明学者の歌に

皆人の詣る社に神はなし

こゝろの中に神ぞまします

と教えたるその神の最も類したものらしい。僕はここで有神論や宗教論を述べんとする意ではないが、人には老若貴賤の区別なく右に述べた神の如き何かが各自に宿っていることは、僕の堅く信ずる所であって、また何人も信じなくとも否定の出来ぬことであろう。そこでこの何ものかがあるいは勧めあるいは命じあるいは禁ずるものを僕は内部の矩といいたい。人はそれに背こうとしても背かれぬ、強て背けば終生心に不安を感ずる、この内部の矩を制定するのはあるいは神といわんか、昔のソクラテスのデイモンといわんか、旧約聖書にある声(voice)といわんか、名は人によりて異なるにしてもともかく自己以上の偉大なる威権を有するものがあるだけは何人も認めるところであろう。何人も認めながらその声に何時も服従する者は甚だ少い。要するにこの声を能く守る者は善良なる人、悉くこれに従えば聖人君子というものであろう。孔子が七十歳に至って始めて矩を踰えない域に達したのは外部の矩よりも寧ろ内部のこの矩を意味したのではなかろうか。孔子は若い時には随分他人の排斥を受けたようであり、他人の反感を買ったこともあったであろうけれども、彼は大して風俗習慣を破ったことを聞かぬ、もし彼が外部の矩に背いたことありとすれば、下劣なる輿論に背いた位なものであろう。大体に於ては若い時から外部の矩を能く守った人と思わるるにかかわらず、七十にして始めて矩を踰えないところに達したと断言せるを見れば、この矩は必ず内部の矩であったろうと思われる。もしそうならば孔子はその欲することが悉く良心の命ずる所と一致したのである。これを顛倒していえば良心の命ずる所は一として心の欲せざる所はないことになる。心の欲望と本心の命令とが合致したのである。やや極端に聞えようが、人と神と合致した所に達したのではないか。というも僕は孔子を以て神と同一視するのでないが、ウエルスのいわゆる神の意で合致せるというに過ぎぬ。

ここまでで全体の約53%。残り約4分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。

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出典: 青空文庫(新渡戸稲造『自由の真髄』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。

「『自由の真髄』は何を書いた作品ですか」

この問いに、新渡戸稲造はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。

内部の矩を踰えない自由を理解してこそ始めてデモクラシーの真の味が分るものと思う。
しかしこの説を誤れば独り我身のみならず社会をも過るものである故危険が多い、危険の多い説なるが故に、僕は注意を惹くの必要ありと思い、ここにその一端を述べた次第である。

名著伴読では、こうした箇所を新渡戸稲造の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。

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