収録作品 / 名著伴読

太宰治『ヴィヨンの妻』

だめな夫を支える妻の目で描く

全文 20,509字・読了の目安 約41分(3節)。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。

原文(はじめの5分)

一

あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。

夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、

「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」

と申しますと、

「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。

これも珍らしい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩せているので、凄しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫でてやっているより他は無いのでございます。

けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の烈しい呼吸ばかり聞えていましたが、

「ごめん下さい」

と、女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。

「ごめん下さい。大谷さん」

こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、

「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」

と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。

夫は、その時やっと玄関に出た様子で、

「なんだい」

と、ひどくおどおどしているような、まの抜けた返辞をいたしました。

「なんだいではありませんよ」と女は、声をひそめて言い、「こんな、ちゃんとしたお家もあるくせに、どろぼうを働くなんて、どうした事です。ひとのわるい冗談はよして、あれを返して下さい。でなければ、私はこれからすぐ警察に訴えます」

「何を言うんだ。失敬な事を言うな。ここは、お前たちの来るところでは無い。帰れ! 帰らなければ、僕のほうからお前たちを訴えてやる」

その時、もうひとりの男の声が出ました。

「先生、いい度胸だね。お前たちの来るところではない、とは出かした。呆れてものが言えねえや。他の事とは違う。よその家の金を、あんた、冗談にも程度がありますよ。いままでだって、私たち夫婦は、あんたのために、どれだけ苦労をさせられて来たか、わからねえのだ。それなのに、こんな、今夜のような情ねえ事をし出かしてくれる。先生、私は見そこないましたよ」

「ゆすりだ」と夫は、威たけ高に言うのですが、その声は震えていました。「恐喝だ。帰れ! 文句があるなら、あした聞く」

「たいへんな事を言いやがるなあ、先生、すっかりもう一人前の悪党だ。それではもう警察へお願いするより手がねえぜ」

その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄い憎悪がこもっていました。

「勝手にしろ!」と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。

私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、

「いらっしゃいまし」

と挨拶しました。

「や、これは奥さんですか」

膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首肯くように会釈しました。

女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。

「こんな夜中にあがりまして」

とその女のひとは、やはり少しも笑わずにショールをはずして私にお辞儀をかえしました。

その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛び出ようとしました。

「おっと、そいつあいけない」

男のひとは、その夫の片腕をとらえ、二人は瞬時もみ合いました。

「放せ! 刺すぞ」

夫の右手にジャックナイフが光っていました。そのナイフは、夫の愛蔵のものでございまして、たしか夫の机の引出しの中にあったので、それではさっき夫が家へ帰るなり何だか引出しを掻きまわしていたようでしたが、かねてこんな事になるのを予期して、ナイフを捜し、懐にいれていたのに、違いありません。

男のひとは身をひきました。そのすきに夫は大きい鴉のように二重廻しの袖をひるがえして、外に飛び出しました。

「どろぼう!」

と男のひとは大声を挙げ、つづいて外に飛び出そうとしましたが、私は、はだしで土間に降りて男を抱いて引きとめ、

「およしなさいまし。どちらにもお怪我があっては、なりませぬ。あとの始末は、私がいたします」

と申しますと、傍から四十の女のひとも、

「そうですね、とうさん。気ちがいに刃物です。何をするかわかりません」

と言いました。

「ちきしょう! 警察だ。もう承知できねえ」

ぼんやり外の暗闇を見ながら、ひとりごとのようにそう呟き、けれども、その男のひとの総身の力は既に抜けてしまっていました。

「すみません。どうぞ、おあがりになって、お話を聞かして下さいまし」

と言って私は式台にあがってしゃがみ、

ここまでで全体の約12%。残り約36分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。

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出典: 青空文庫(太宰治『ヴィヨンの妻』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。

節ごとの読了の目安

名著伴読は長い作品を一度に読み切れる長さへ区切っています。下の内訳はその区切りです。

節見出し目安
1一約21分
2二約10分
3三約10分

「『ヴィヨンの妻』は何を書いた作品ですか」

この問いに、太宰治はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。

それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。
或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ

名著伴読では、こうした箇所を太宰治の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。

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