収録作品 / 名著伴読

中谷宇吉郎『簪を挿した蛇』

科学者の目で見た日常の随筆

全文 9,670字・読了の目安 約19分。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。

原文(はじめの5分)

石川県の西のはずれ、福井県との境近くに大聖寺という町がある。其処に錦城という小学校があって、その学校で私は六年間の小学校生活を卒えた。たしか尋常六年の時に、明治天皇が崩御されたように記憶しているので、私の小学校時代は、明治の末期に当るわけである。

この町は、子爵の方の前田家の旧城下町であって、その頃の小学校は旧藩主のもとの屋敷をそのまま使ったものであった。それで学校といっても、現在普通に見られるような半洋風の建物ではなかった。もっとも一部は建て増されたもので、二階建の普通の小学校の形になっていたが、雨天体操場の方などは、昔の建物をそのまま使っていたので、今から考えてみれば、随分古風な学校であった。在学中にこの雨天体操場の方も改築されたように憶えているが、印象に残っているのは、妙に改築前の旧い体操場の方である。

雨天体操場といっても、旧藩主の大きい邸宅の襖をとりはずしただけのものであったから、中には柱が一杯立っていた。大広間と次の間に当るところが、この体操場の中心部で、その両側に広い廊下があったらしい。柱がずっと一列に立っていた。奥の半分は、小さい部屋が沢山あったところを、壁と襖をはずしてそのまま使ったらしく、その部分には沢山の細い柱がそれこそ林立していた。

この雨天体操場は、式や会の時には講堂となり、休み時間には児童の遊び場であった。実際は雨天体操場などという新しい名前はなくて、私たちは溜りと呼んでいた。十分の休み時間には、この溜り一杯胡麻を散らしたように、児童たちが真黒く群って走り廻っていた。その中には四十年前の自分もいたわけである。柱が沢山あるので、陣取りには誂え向きであった。五組も十組もの陣取りが、それぞれ好みの柱の群を占領して、縦横に馳け廻るので、呼び声叫び声が、薄暗いこの体操場に一杯に満ちあふれていた。

薄暗いといえば、この体操場の奥の半分、柱が林立していたところは、昼でも本など読めないくらい暗かった。その中心部に、何のあとかは考えたこともなかったが、三尺四方の四隅に、四本の柱が立っているところがあった。林立する柱の中で、この四本の柱だけが何となく目に立った。其処は「四本柱」という名前がついていた。何か気味の悪いところで、子供たちの間には、一種の魔所に考えられていたようであった。何年の時か忘れたが、この「四本柱」の床の下には、女の髪の毛が埋められているという風説が流布され、私たちは真面目にそれを信じていた。

明治の末期といっても、北陸の片田舎までは、まだ文明開化の浪は押し寄せて来ていなかった。たしか六年生の頃に、初めて電燈がついたくらいで、徳川時代からずっとおどんでいた空気は、まだこの小さい旧い城下町の上を低く蔽っていた。旧藩主は町の一部に、別の御屋敷をもって、一年の半ばは其処に住んでおられた。そして人々はお正月には「殿様のところへ伺候する」習慣をずっと守っていた。

小学校のすぐ後は、小さい山に続いていた。錦城山という山であった。この山には前田家の以前に、山口玄蕃とかいう豪族の城があったそうである。そしてその城が落城する時に、奥方や姫たちが、池に入るか崖からとび降りるかして死んだというような伝説が残っていた。この小高い山は、その当時の子供たちの間には、全く人跡未踏の魔境であった。山は二段になっていて、頂上に本統の城の趾があるという話であったが、其処は怖ろしくて、とても子供たちの行ける場所ではなかった。私などは六年間の小学校生活中に、一度もその城趾までは登らなかった。其処には、簪をさした蛇だの、両頭の蛇だのがいるという噂があった。もちろん一つ一つに落城の伝説がからまっていて、子供たちは誰もそれを疑わなかった。

中腹の小高いところに、ちょっと平らな場所があって、其処には下屋敷があったということになっていた。其処までは一、二度行ったことがあるが、鬱蒼と茂った暗い森の中に、細い径がたえだえについていたような気がする。そしてその場所に著くと、急に平らな如何にも屋敷趾らしい開けた土地があった。開けたといっても、それは亡霊の住む土地である。やっと木の間から盗み見るくらいで、匆々に逃げ帰って来るのが普通であった。今から考えてみれば、せいぜい二十分くらいの行程のところであったように思われる。しかし子供たちにとっては、その探険には非常な勇気が必要であった。

子供たちはもちろん和服で、みな木綿の袴をはいていた。私の父は当時のハイカラであったらしく、いつか洋服を一著作ってくれたことがあったが、そんなものを著て外を歩くことなどはとても出来なかった。雨の多い土地であったが、傘を持って来るのは極く少数で、大抵は茣蓙帽子という茣蓙で作った一種のマントを頭からかぶって学校へ通った。雨風の強い日などは、茣蓙を通した雨でびしょ濡れになって学校へ著いた。そしてずらりと並んだ下駄箱に下駄を納め、藁草履にはきかえて、溜りに集った。草履をはかない素足の子供たちも沢山いた。

先生たちは、一人ずつ交代に宿直することになっていた。可愛がってくれる受持の先生が宿直をされた次の朝は、よく六時頃に学校へ行って、宿直室で八時の授業開始まで遊んだものであった。若いざん切り頭の先生は、蒲団を隅の方へ押しやって、褐い畳の上で火鉢で御飯をたいていた。そして飯の出来るまでと言って、将棋を教えてくれたりしたものであった。

ピアノなどというものは、名前も聞いたことがなかったし、理科の実験などももちろんなかった。仏教の盛んな土地だけに、町全体の雰囲気には近代の匂いが全くなく、科学などというものには、凡そ無縁の土地であった。子供たちは、大人の読み残した貸本の講談本を盗み読むくらいで、その当時あこがれの的であった『少年世界』や『日本少年』を毎月とっているなどという子供は、級に一人か二人という程度であった。それは遥かなる土地の文明の余光であって、年寄りたちがお説教できいてくる仏教の因果話と地獄極楽の絵とで培われた子供たちの頭には、幻惑的な閃光をもたらすものであった。

ここまでで全体の約26%。残り約14分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。

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出典: 青空文庫(中谷宇吉郎『簪を挿した蛇』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。

「『簪を挿した蛇』は何を書いた作品ですか」

この問いに、中谷宇吉郎はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。

迷信や怪異譚なども、実害のない限りは、何も禁止する必要はないと思われる。簪をさした蛇など甚だ結構である。
眼に見えない星雲の渦巻く虚空と、簪をさした蛇とは、私にとっては、自分の科学の母胎である。

名著伴読では、こうした箇所を中谷宇吉郎の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。

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