収録作品 / 名著伴読

牧野富太郎『牧野富太郎自叙伝』

独学で植物学を究めた生涯

全文 55,335字・読了の目安 約111分(7節)。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。

原文(はじめの5分)

幼年期

土佐の国、高岡郡佐川町、この町は高知から西へ七里隔ったところにあり、その周囲は山で囲まれ、その間にずっと田が連り、春日川という川が流れている。この川の側にあるのが佐川町である。南は山を負った町になり、北は開いた田になっている。人口は五千位の小さい町である。この佐川からは色々な人物が輩出した。現代の人では田中光顕・土方寧・古沢滋(迂郎が元の名)・片岡利和・土居香国・井原昂等の名を挙げる事ができる。古いところは色々の儒者があり、勤王家があった。この佐川町から多くの儒者が出たのは、ここに名教館という儒学つまり漢学を教える学校があり、古くから教育をやっていたためである。佐川には儒者が多く出たので「佐川山分学者あり」と人がよくいったものである。山分とは土地の言葉で山が沢山あるところの意である。

佐川の町は山内家特待の家老――深尾家の領地で、それがこの町の主権者であった。

明治の代になり、文明開化の世になると学校も前とは組織も変わり、後にはそこで科学・文学を教えるようになった。そうなったのが明治五、六年の頃であった。

明治七年にはじめて小学校制がしかれたので名教館は廃され、小学校になった。

佐川の領主――深尾家は主権者だが、その下に多くの家来がいて、これらの武士は町の一部に住み、町の大部分には町人が住んでいた。そして町の外には農家があった。近傍の村の人達は皆この町へ買物にきた。佐川の町には色々の商人がいて商売をしていた。佐川は大変水のよいところなので酒造りに適していたため、数軒の酒屋があった。町の大きさの割には酒家が多かった。

所感

何時までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば

われらの大先輩に本草学、植物学に精進せられた博物学者の錦窠翁伊藤圭介先生があった。珍しくも九十九歳の長寿を保たれしはまず例の鮮ない芽出度い事である。しかるに先生の学問上研鑽がこの長寿と道連れにならずに、先生の歿年より遡りておよそ四十年程も前にそれがストップして、その後の先生は単に生きていられただけであった。そうすると先生の研究は直言すれば死の前早くも死んでいるのである。学者はそれで可いのか、私は立ちどころにノーと答える事に躊躇しない。

学者は死ぬる間際まで、すなわち身心が学問に役立つ間は日夜孜々としてその研鑽を続けねばならない義務と責任とがある。畢竟それが学者の真面目で学者の学者たる所以はそこにある。「老」という事は強いて問題にすべきものではなく、活動している間は歳は幾つであろうと敢てそれを念頭に置く必要は無い。足腰が立たなくなり手も眼も衰え来ってために仕事が出来なくなれば、その時こそはじめて「老」が音ずれて真の頽齢境に入るのである。そうなれば全く世に無用な人間となりはて、何時死ぬるも御勝手で何も遠慮することには及ばぬ事となる。

この佐川の町にかく述べる牧野富太郎が生まれた。文久二年四月二十四日呱々の声を挙げたのである。牧野の家は酒造りと雑貨店(小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。家は町ではかなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。牧野家家付の娘――久寿は、すなわち私の母である。

佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。両親共に三十代の若さで他界したのである。私はまだ余り幼かったので父の顔も、母の顔も記憶にない。私はこのように両親に早く別れたので親の味というものを知らない。育ててくれたのは祖母で、牧野家の一人息子として、とても大切に育てたものらしい。小さい時は体は弱く、時々病気をしたので注意をして養育された。祖母は私の胸に骨が出ているといって随分心配したらしい。酒屋を継ぐ一人子として大切な私だったのである。

生まれた直後、乳母を雇い、その乳母が私を守りした。この女は隣村の越知村からきた。その乳母の背に負ぶさって乳母の家に行ったことがあった。その時乳母の家の藁葺家根が見えた時のことをおぼろげに記憶している。これが私の記憶している第一のものである。その後乳母に暇をやり、祖母が専ら私を育てたのである。

酒屋は主人が亡くなったので、祖母が代わって采配を振って家の面倒を見ていた。旧い家であるので、自然に家の定りがついていて、家が乱れず商売を続けていた。

自分は平素上のように考えているので、たとい年は取ってもなるべく仕事の出来る期間の長からん事を祈っている。そして前の伊藤先生の場合を回想すると先生の長寿はこの上も無く芽出度いが、その疾く放棄せられた研究心はその長寿に比べては一向に御芽出度く無い。故に学者としての先生は決して九十九歳では無く、それよりはずっと短くおよそ六十歳位の生命であったと断ずべきだ。自分は無論先生の比類稀れな長寿を祝する事には異存は無いが、しかし一面早くも研鑽心を忘れた先生を弔する事にも敢て臆病では無いのだ。

家には番頭――この男は佐枝竹蔵といった――がいてよく家のために尽していた。この男は香美郡の久枝村から奉公にきた人である。これがなかなかのしっかり者であり、後に独立して酒屋を営んでいた。こういう偉い番頭がいたので主人亡き後も、よく商売が繁昌していた。

その頃のことでよく憶えていることは、私はよく酒男に押えつけられて灸をすえられたことである。それが病身の私を強くしたとも思う。

ある時番頭が、その頃極めて珍しかった時計を買ってきたことがあった。私は時計が不思議でその中を見たくてたまらず、時計を解剖してよく納得いくまで中を調べて見た。誠太さんには困ると皆がいった。誠太郎は私の幼名である。

私は段々成長し、明治四、五年頃寺子屋に行き、習字を習った。寺子屋は佐川の町の一部―西谷に〔あり、〕土居謙護という人がお師匠さんであった。そこでイロハから習った。そうするうちに寺子屋を替えた。

ここまでで全体の約4%。残り約106分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。

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出典: 青空文庫(牧野富太郎『牧野富太郎自叙伝』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。

節ごとの読了の目安

名著伴読は長い作品を一度に読み切れる長さへ区切っています。下の内訳はその区切りです。

節見出し目安
1幼年期約18分
2東京近郊における採集約19分
3池野成一郎博士との親交約18分
4池長植物研究所約13分
5亡き妻を想う約13分
6学内事情約9分
7私と大学約20分

「『牧野富太郎自叙伝』は何を書いた作品ですか」

この問いに、牧野富太郎はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。

この佐川の町にかく述べる牧野富太郎が生まれた。文久二年四月二十四日呱々の声を挙げたのである。
わが植物学界の国宝的存在牧野富太郎博士が四十七年間即ち半世紀の長きにわたって奉職していたその東大の植物学教室から今度追われる如く、或は自ら追ん出る如くにして、老の身を教壇から退かなければならなかった
牧野博士の頭脳が学術資料としてはるばるアメリカ・コーネル大学に送られ、総司令部経済科学局でもこれを援助すると言う新生文化日本にふさわしい快適なニュースがある。

名著伴読では、こうした箇所を牧野富太郎の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。

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