湯気ひとつから自然の仕組みへ広がる
全文 3,957字・読了の目安 約8分。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。
ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物です。
第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶わんを、縁側の日向へ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、虹のような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。
すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴の心になるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。
茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切った室で、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。
次に湯げが上がるときにはいろいろの渦ができます。これがまたよく見ているとなかなかおもしろいものです。線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまではまっすぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつもの渦になり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。茶わんの湯げなどの場合だと、もう茶わんのすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。
これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。湯げは、縁の下や垣根のすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻のようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。
茶わんの上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別にあたためられると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。そういう地方のそばに、割合に冷たい空気におおわれた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行くあとへ、入り代わりにまわりの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。そして雹がふったり雷が鳴ったりします。
これは茶わんの場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶わんの湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思ってもさしつかえありません。もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様のちがったのもありますから、どれもこれもみんな茶わんの湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。
湯げのお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。
白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆるやかに動いているのに気がつくでしょう。これは夜電燈の光をあてて見ると、もっとよくあざやかに見えます。夕食のお膳の上でもやれますからよく見てごらんなさい。それもお湯がなるべく熱いほど模様がはっきりします。
次に、茶わんのお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶わんの周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんとふたでもしておけば、冷やされるのはおもにまわりの茶わんにふれた部分だけになります。そうなると、茶わんに接したところでは湯は冷えて重くなり、下のほうへ流れて底のほうへ向かって動きます。その反対に、茶わんのまん中のほうでは逆に上のほうへのぼって、表面からは外側に向かって流れる、だいたいそういうふうな循環が起こります。よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。
ここまでで全体の約62%。残り約3分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。
出典: 青空文庫(寺田寅彦『茶わんの湯』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。
この問いに、寺田寅彦はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。
ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。
ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。
茶わんの湯のお話は、すればまだいくらでもありますが、今度はこれくらいにしておきましょう。
名著伴読では、こうした箇所を寺田寅彦の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。
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