収録作品 / 名著伴読

柳田國男『海上の道』

日本人の来歴を海から考える

全文 182,523字・読了の目安 約365分(30節)。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。

原文(はじめの5分)

まえがき

私は三十年ほど前に、日本人は如何にして渡って来たかという題目について所感を発表したことがあるが、それからこの方、船と航海の問題が常に念頭から離れなかった。その中の一つで是非ともここに述べておきたいのは、日本と沖縄とを連ねる交通路のことである。今では沖縄へ行くのには概ね西海岸の航路を取っているが、古くは東海岸を主としていたのではないかということを説いてみたいのである。

日本の南北の交通は、後に使わなくなった東海岸を余計に使っていたのではないか。古い航海には東海岸の方が便利であった。遠浅の砂浜が多く、短距離を航海しながら船を陸に上げて宿をとり、話がつけば暫らくの間、あがった処に滞在することもできた。むかしは一年に一回航海すればよかったので、年内に再びやってこようなどということは考えなかったのである。

日本では首里と那覇を中心点と見ることに決めてしまったので、東海岸の文化や言葉は後になって変化したのだと考えている。けれども私は最初からの違いが証明できると思う。北からずっと一遍に南の方まで航行して、信覚と書いた石垣まで行ったのである。信覚にあたる地名は八重山にしかないのだから、彼処と早くから往来していたと見なければならない。

それがやや突飛な考えであるためか、人が信じないけれども、砂浜をねらって、風が強く吹けば、そこに幾日でも碇泊するというようにして行けば行けるのである。沖縄本島より宮古島、宮古島から多良間島を通って八重山群島の方へ行ったと考えても、少しも差支えない。

私が東海岸と言い出したのは、別に明白な証拠とてないが、沖永良部島や、与論島の沿海なども、東西二つの道があったことを島の人は記憶している。だんだん西の方の海岸を使用するようになり、同じ国頭へ行くのでも、西側を通って船が行くようになったのは後世のことである。

日本人が主たる交通者であった時代、那覇の港が開けるまでの間は、東海岸地帯は日本と共通するものが多かったと想像できる。言葉なども多分現在よりも日本に近かったのだろうと思う。首里・那覇地方は一時盛んに外国人を受け入れて、十カ国ぐらいの人間がいたというから、東側とは大分事情が違うのであった。

本島の知念・玉城から南下して那覇の港へ回航するのは非常に時間がかかる。その労苦を思えば宮古島の北岸へ行くのは容易であった。那覇を開いたのは久米島の方を通ってくる北の航路が開始されてからであるが、それは隋時代の事とされている。この北の道はかなり骨の折れる航路で、船足も早くなければならず、途中で船を修繕する所が必要であった。余程しっかりした自信、力のある乗手であるうえに、風と潮とをよく知っている者でなくてはならなかった。

沖縄本島は飛行機から見ればもちろんだけれども、そうでなくても丘の上にあがると東西両面の海が見える処がある。其処を船をかついで東側から西側へ越えれば容易に交通ができると考えるかもしれないが、しかし人の系統が違うとそう簡単には行かない。

私が一番最初それを感じたのは、NHKの矢成君たちが国頭の安田、安波の会話を録音してきたのを聞いたときである。最初は日本本土の人が移住して来たのではないかと思ったほど、こちらの言葉とよく似ていた。しかし直ぐにそれが間違いであり、もともと内地の言葉とそう変っていなかったのだということに勘づいた。東海岸と西海岸とはいくらも距っていないけれども、文化発達の経路が違うために言葉や住民の構成などが異なっているのである。

勝連文化と私は仮に呼んでいるのだが、その勝連文化と首里・那覇を中心とした文化、すなわち浦添文化とでも言うべきものとの間には、系統上の相異があったのではなかろうか。

今日では勝連の文化というものが少しも残されていない。馬琴の『弓張月』にまで書かれている勝連按司の阿麻和利は、沖縄の歴史の上で、すっかり悪者にされてしまっているが、これは伊波普猷君などが早くから注意したように、勝敗処をかえれば忠臣とも逆臣ともなった戦国の世の習いであった。『おもろ草紙』を見てもわかるように、勝連が当時の文化の中心であったことは大和の鎌倉のごとしと歌われていた通りであった。

往時わが国では如何なる船を使って南北の間を航海したのであろうか。専門の造船業者のなかった時代を考えると、船材の得られる場所をみつけて、そこで船を造って用いたに違いない。たとえば安芸の国、それに周防など、今でも船材を多く出しているし、中世においては建築木材を出しており、奈良の大きな寺院の建立などには常に用材を供給していた。

日本人の渡来を問題にするとき、東海岸の航路を取り上げざるを得ない。どの辺にはじめて上陸したかについては、いろいろな説が成り立ち得るが、日向の高千穂に天から降りたということを承認すれば問題にならぬけれども、それがあり得べからざることとすれば、やはり日向などで船を仕立てて北上したことが想像される。神武天皇の御東征にしても、潮の激しく、風の強い関門海峡を通らずに、じかに東海岸からずっと瀬戸内海に入ってしまわれたのだから、東西二つの交通路を並べていうと、東の方が一時代古いということは言えそうである。しかしこれはむつかしい問題で、我々一代の間に解決できるものとは思っていない。

このいくつかの文章の大部分は、この問題を常に念頭に置いて書いた。まだ断定を下すには自分の予備知識が不足しているので躊躇したけれども、この考えの適用できると信じた場合はいつもそれを条件の一つとしてかぞえてきた。

日本人の人種起源論は、土地土地に残っている昔の痕跡を、考えのうちに入れて見て行かねばならない。今度集めた論文の中には空想を遥かに遠く、青森県の北端まで持っていったものもある。今までの日本人論をみると、太平洋の交通を考慮に入れることが少し不十分であった。つまり伊勢とか、もう少し東に寄って駿河とか遠江とかいうくらいまでのところが、区切りになっているような気がして、あのへんの歴史が等閑に附されているようである。房州の半島でも、それから伊豆の半島でも、みんな長い間かかって回って来たのではないかと考えている。

ここまでで全体の約1%。残り約360分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。

『海上の道』の続きを読む

出典: 青空文庫(柳田國男『海上の道』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。

節ごとの読了の目安

名著伴読は長い作品を一度に読み切れる長さへ区切っています。下の内訳はその区切りです。

節見出し目安
1まえがき約18分
2海上の道 六約18分
3海上の道 一三約19分
4海上の道 二一約19分
5海神宮考 七 動物報恩型約19分
6海神宮考 一四 遠島の使約18分
7海神宮考 一九 ニルヤと根の国約4分
8海神宮考 二〇 根国思想の変遷約7分
9海神宮考 二一 東方浄土観約6分
10みろくの船 一 未来仏の信仰約19分
11根の国の話 二 根の国と常世の国約10分
12根の国の話 六 国語の成長期約18分
13根の国の話 一一 古見の島の盛衰約6分
14根の国の話 終りに約18分
15鼠の浄土 五約8分
16鼠の浄土 七約12分
17鼠の浄土 一〇約5分
18鼠の浄土 一一約6分
19鼠の浄土 一二約4分
20鼠の浄土 一三約5分
21鼠の浄土 一四約5分
22鼠の浄土 一五約5分
23鼠の浄土 一六約6分
24宝貝のこと 一約14分
25人とズズダマ 一約28分
26稲の産屋 発端約20分
27稲の産屋 稲と白山神約18分
28稲の産屋 年俵と種俵約16分
29知りたいと思う事二、三約8分
30索引 ア約6分

「『海上の道』は何を書いた作品ですか」

この問いに、柳田國男はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。

日本人の移住と稲作発祥地との問題について考察したものであり、あわせて参照されたい。
勿論私は椰子の実の漂着地の一つをもって、原始日本人の上陸点と見ようとするのではない。
国の端々の海上知識は、多くは記憶しやすいコトワザの形になって、今もその土地には散乱しているのだが、それを蒐集してみようとする人は稀にもなく

名著伴読では、こうした箇所を柳田國男の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。

柳田國男に聞いてみる

アプリで『海上の道』を読む

柳田國男の収録作品

名著伴読は青空文庫および各著者の関係団体とは無関係の非公式アプリです。