河童の国から人間社会を風刺
全文 37,604字・読了の目安 約75分(9節)。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。
序
これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりはしなかったわけではない。彼はたとえば「驚いた」と言う時には急に顔をのけぞらせたりした。……
僕はこういう彼の話をかなり正確に写したつもりである。もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い第二十三号はまず丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであろう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。最後に、――僕はこの話を終わった時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨をふりまわしながら、だれにでもこう怒鳴りつけるであろう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」
一
三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川をさかのぼるほかはありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は見えません。のみならずかえって深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ登ってしまえ。」――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。
しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛生欅や樅の枝が青あおと葉を垂らしたのも見えなかったわけではありません。それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々とした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧にぬれ透った登山服や毛布なども並みたいていの重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へ下りることにしました。
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童というものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。
僕は呆っ気にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。僕はいよいよ驚きながら、熊笹の中を見まわしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔たった向こうに僕を振り返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかし僕に意外だったのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり緑いろに変わっているのです。僕は「畜生!」とおお声をあげ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのはもちろんです。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追いつづけました。
河童もまた足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になって追いかける間に何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらして転がったこともたびたびです。が、大きい橡の木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ちふさがりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。僕は滑らかな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、たちまち深い闇の中へまっさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方もないことを考えるものです。僕は「あっ」と思う拍子にあの上高地の温泉宿のそばに「河童橋」という橋があるのを思い出しました。それから、――それから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失っていました。
ここまでで全体の約6%。残り約70分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。
出典: 青空文庫(芥川龍之介『河童』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。
名著伴読は長い作品を一度に読み切れる長さへ区切っています。下の内訳はその区切りです。
| 節 | 見出し | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 序 | 約18分 |
| 2 | 六 | 約11分 |
| 3 | 九 | 約6分 |
| 4 | 十 | 約9分 |
| 5 | 十二 | 約5分 |
| 6 | 十三 | 約4分 |
| 7 | 一四 | 約8分 |
| 8 | 一五 | 約9分 |
| 9 | 一七 | 約4分 |
この問いに、芥川龍之介はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。
河童は我々人間の真面目に思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。
雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのにいかなる手段も顧みません、一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追いかけるのです。
三十六万九千五百匹の河童たちはそのために健気にも戦死しました。
名著伴読では、こうした箇所を芥川龍之介の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。
名著伴読は青空文庫および各著者の関係団体とは無関係の非公式アプリです。