人生と人間を突く警句集
全文 35,041字・読了の目安 約70分(4節)。青空文庫の公開テキストを、縦書きの原文のまま読めます。
「侏儒の言葉」の序
「侏儒の言葉」は必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
星
太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。
真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり
しかし星も我我のように流転を閲すると云うことは――兎に角退屈でないことはあるまい。
鼻
クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
アントニイもそう云う例に洩れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう。何か他の長所と云えば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具えた女性は一人もいないのに相違ない。アントニイもきっと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償いを見出したであろう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を挙げれば、以前或名士に愛されたと云う事実乃至風評さえ、長所の一つに数えられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢と神秘とに充ち満ちたエジプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮の花か何か弄んでいれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかったであろう。況やアントニイの眼をやである。
こう云う我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我々の歯痛ではないか? 勿論我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。
つまり二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻の如何に依ったのではない。寧ろ地上に遍満した我我の愚昧に依ったのである。哂うべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依ったのである。
修身
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
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道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。
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妄に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
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我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
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強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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道徳は常に古着である。
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良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
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良心とは厳粛なる趣味である。
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良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ甞て、良心の良の字も造ったことはない。
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良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。
好悪
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹っていたらしい。
ここまでで全体の約8%。残り約64分は、名著伴読で続きから読めます。分からない箇所は、その場で著者に聞けます。
出典: 青空文庫(芥川龍之介『侏儒の言葉』)。本文は著作権の保護期間が満了した公開テキストです。
名著伴読は長い作品を一度に読み切れる長さへ区切っています。下の内訳はその区切りです。
| 節 | 見出し | 目安 |
|---|---|---|
| 1 | 侏儒の言葉(1/4) | 約19分 |
| 2 | 侏儒の言葉(2/4) | 約20分 |
| 3 | 侏儒の言葉(3/4) | 約19分 |
| 4 | 侏儒の言葉(4/4) | 約13分 |
この問いに、芥川龍之介はこう書いています。下はすべて原文からの逐語引用です。
「侏儒の言葉」は必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。
名著伴読では、こうした箇所を芥川龍之介の一人称でつなぎ、必ず原文の引用を添えて答えます。引用は原文と一字一句照合したものだけを出し、触れると原文のその箇所へ移動します。AI による再現であり、本人の発言ではありません。
名著伴読は青空文庫および各著者の関係団体とは無関係の非公式アプリです。